2007年12月31日月曜日

施本「佛の道」・第十二章 無価値

施本「佛の道」・第十二章 無価値

 次も、無執着、無所有の続きとなるのですが、無価値についてであります。

 この場合 の価値は、絶対的価値=真理というものではなくて、中道の見方からは離れてしまった人間の主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素が 色々と入って妄想されて創られた世俗における価値のことで、当然に目に見えない概念的なものであり、あやふやで入れ替わり立ち替わりも激しい優劣・正誤・ 善悪などの判断基準になるものでもあります。

 この場合における価値も無常の例外ではなく、変化する不安定な中にあります。私たちはそういうものにでさえも、無常・無我・苦の真理を理解しないままであれば、永遠性・不変性を探し出そうと妄想を繰り返して、しかも執着してしまうのであります。

 また、この場合の「価値」は、「特別」とも言い換えることもできるでしょう。

 私の特別の人・家族・生命・モノ・財産・地位・名誉・権力、地球・太陽・宇宙、さらには思想・主義・主張・思考、過去・現在・未来においてまでも「特別」としてしまおうとします。

 「特別」というのも、ここにおいては、やはり永遠性・不変性を求めようとしたり、こうあってほしい、こうなってほしいという渇愛になるもので、さらにほしいと執着しようとしているものに過ぎないのであります。

  無常・無我なる中では、この場合の価値など何も成り立たないもので、おそらく、私たち人類が現在有り難がっている様々な価値は、人類が存在していればこそ 自分たちの自己都合・自己満足で成り立っているものがほとんどで、人類が絶滅してしまえば、どうでもいいようなもの、意味も無くなって霧散するようなもの であります。というよりも「価値」、「特別」などというものは、始めから何も無いのに、無いものをあるのだと妄想して幻想を追いかけて悩むことでの苦しみ も生じてしまうわけでもあります。

 全てが因縁の中で生滅変化を繰り返してゆくこの無常なる世界では、ほしいと渇愛し、もっとほしいと執 着するに値するもの、意味あるもの、価値あるもの、特別なものは実は何も無く、愚かにもそれらを妄想することで、また苦しみが生じてしまうため、その妄想 を止めなければならないのであります。

 無常において生滅変化していくに何ら差別はなく、中道の見方から外れた人間の恣意的要素による優劣・正誤・善悪の価値判断も何ら頼りなく変わってしまうもので、そこに束縛される意味もないのであります。

  私たちが有り難がらなければならないものは、普遍的な真理だけであって、それ以外に人間の生み出していく価値・概念などは、どうでもよい捨て去るべき妄想 でしかないのであります。また、現象・存在の何かに価値を入れてしまうと、とたんに渇愛・執着が生まれて、そのままそれが苦しみに変わってしまいます。無 常においては、価値は成り立たず、無価値であることを自覚して、苦しみを無くしていかなければならないのであります。

施本「佛の道」・各章
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2007年12月30日日曜日

施本「佛の道」・第十一章 無所有

施本「佛の道」・第十一章 無所有

 次に、無執着とほとんど内容は一緒となりますが、無所有についてであります。

 「本 来無一物」と言われますように、はじめから所有できるものは何も無いということでありますが、なかなかこれも無明の闇の中では理解されないことでありま す。「私のもの」、「あなたのもの」、「私の所有」、「あなたの所有」と日常においても頻繁に使う言葉であり、法律の条文の中にも所有権という言葉が平然 とありますので、当然に仕方ありません。

 しかし、仏教の無常・無我・苦を学んだ者は、所有という概念は成り立たない、苦しみの元となることに気がつかなければならないのであります。

 所有という概念は、そのものが変わらずにある、変わらない自分がいる、自分の支配下にある、自分の思い通りに、意のままにある、期待通り、希望通りにあるということで成り立っています。

  では、本当にそうであると言えるでしょうか。たとえ何かを得れたしても、無常なる中で、そのものも自分も、刻々と変化してゆきます。もしも得れたというこ とが仮にあったとしてもほんの一瞬のことで、物質であれば、その変化が目に見えようが、目に見えまいが、色が変わろうが、変わるまいが、因縁においてもう 次の瞬間には原子・分子・中性子・素粒子の単位でめまぐるしくどんどん変化していっています。のみならず得たと思った自分の心も身体も、次の瞬間にはどん どん因縁によって変化しています。

 ですから、得たものも、得たと思った自分も次の瞬間にはもう既になく、得る、所有するということは始 めから全く成り立たないことであり、変わらない自分というものがあって、変わらない対象があってこそ、所有というものは成り立ちますが、無常の中、変わら ない現象・存在は実は何もないのであります。

 それでも得たのだ、所有しているのだとするためには、もはや無理矢理に妄想して得れる、所 有できる対象が「ある」、得れる、所有できる自分が「ある」というように幻想を生み出し続けるしかありません。「思い通りにある、期待通りにある、希望通 りにある」と、しかし、結局、それは無常という現実の前では全くそうではないのであります。

 そして、得た、所有したと錯覚すると、なぜ思い通りに、期待・希望通りにならないのだと悩み煩い、不満を抱えることとなり、それがそのまま苦しみになるのであります。

  また、「得た」、「所有できた」と錯覚した己自身の身体自体も、思い通り、期待・希望通りにならず、刻々と死へ向かっているのに、何をこの世において得れ るもの、所有できるものがあろうかということであります。死んでしまえば、もはや「得た」、「所有できた」という妄想・幻想のものですらも、捨て去ってい かなければならないのであります。

 このように執着と合わせて、得た・有したという妄執、永遠・永久不滅なのだという幻想への妄執、ものがある、自分があるという妄執は無くしていかなければなりません。

 世間においては、これらの妄執のために、貪り、怒り、嫉妬、高慢、傲慢、エゴなどの悪感情を抱えてしまって、争い事、犯罪、奪い合い、殺し合いの戦争までも起こってしまい、一向にそれらがなくならないのも、それらの妄執・悪感情のせいなのであります。

 しっかりと「無所有」を自覚して、己を滅ぼさぬように、他を傷つけないように、他に迷惑を掛けないように気をつけなければならないのであります。

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2007年12月29日土曜日

施本「佛の道」・第十章 無執着

施本「佛の道」・第十章 無執着

 仏教の実践の上で、何度も何度も出てくる言葉の一つが、まずこの「無執着」であります。 執着は一般には「しゅうちゃく」と言いますが、仏教用語としては「しゅうじゃく」と呼ぶ場合がより正確で、「執著」とも表されることもあります。

 諸行無常において、あらゆるものが移ろい変わりゆく中では、何もしがみつけるものはないにも拘わらず、いつまでも何かにしがみつこうと必至になる、諸法 無我において、固定した実体としての「我」はどこにも見当たらないのに、いつまでも「我」を探し求め、しがみつこうと必至になる、そのしがみつこうとする ことを止めなさいという意味であります。

 十二縁起においては、「愛(渇愛)によって取(執着)が生じる。取(執着)によって有(苦しみの生存・所有という妄執)が生じる」とあるように、執着は 苦しみをもたらす大きな原因であり、苦しみを抱えないためにも、無くさなければならないものとしての実践が、この無執着であります。

 ここでよく挙げる例として、「シャボン玉」があります。シャボン玉は誠に綺麗ですが、できたとしても何秒ももたずに、淡く脆くもすぐに壊れてしまう泡沫 です。皆さんはこのことをよく知っているため、シャボン玉に対して、ほしいという渇愛、もっとほしいという執着もあまり生じないことでしょう。ですから、 壊れて消えてなくなっても、嘆き、悲しみ、後悔などの苦しみは非常に少なく、皆無に近いのであります。

 このように誰もが、あっと言う間に変化し壊れゆくと知っているものには、それほど執着も生じないのであります。

 では、一方で、己の身体はどうでしょうか、己の子供、孫はどうでしょうか、己の財産はどうでしょうか、皆さんいつまでもほしい、いつまでも存在してほしいと渇愛し、もっとほしい、しがみつこうと執着が生じてしまいます。

 でも、無常なる中、シャボン玉と己の身体・子供・財産に何の違いがあるのでしょうか。別に生滅変化の中にあることに違いはなく、ただ因縁に従って、その 現象も瞬間瞬間、刻々と変化していることに全く変わりはなく、止まるものは何一つもないのであります。それが渇愛・執着が生じることで、とたんに「止まっ てくれ」、「去らないでくれ」、「壊れないでくれ」となってしまい、当然に何も止まるもの、去らないもの、壊れないものはないため、そのまま止まらないこ と、去っていくこと、壊れることが苦しみになってしまうのであります。

 また、恋人・伴侶・子供・家族・親族・友人・会社・社会・国家・世界に対して、逆に自分の受け入れたくないこと、認めたくないことなどについては、嫌悪 して、期待通り、希望通りにそれらが変わってほしいという渇愛、もっと早く変わってほしいと思う執着もあるでしょう。しかし、無常は因縁に従って変化して いくため、因縁を超えて妄想した渇愛・執着を抱えてしまっては、なかなか思うようにはならない、期待通り、理想通りにはならないので、そのことで苦しむこ ともあるわけであります。

 もちろん、これは中道としての無常の見方を行っていないために起こることでもあります。自身の主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的 要素によっても、渇愛・執着の度合い、苦しみの度合いが大きく変わっていくことになっていきます。中道としての無常の見方を調えて、何ら偏りの無い、何ら 差別の無い、何ら囚われの無い立場から全ての現象と存在を理解していけば、自然に渇愛・執着は無くなり、苦しみも無くなるのであります。全ての存在と現象 はシャボン玉と何ら変わらないのであり、何ら執着するに値しないのであります。

 しかし、なかなか「無常だ」、「無我だ」、「苦だ」と述べても容易には認めないほど堅固に「執着の砦」は守られているのが世間の現状であります。それが ゆえに、いつまでも悪い感情に支配され、不満、貪り、怒り、高慢、怠惰、嫉妬、怨み、蔑《さげす》み、恐怖、不安、心配、憂い、後悔、昏沈、掉挙などを抱 えて、絶えず苦しみの劫火の中で焼かれ続けて生きてしまっています。平穏が常に破られて、争い、犯罪、戦争が絶えないのもこのためなのであります。

 人間は、財産(お金・土地・モノ)、恋人、伴侶、家族、親族、仲間、見栄、名誉、地位、権力など様々なものに対して、あまりに渇愛・執着が生じてしまう と、次第にそれらに束縛されて、やがてはそれらがその人間を支配してしまうまでに蝕み続け、様々な苦しみが付き従って離れないようになってしまいます。そ のようなまま、あまりに離れないようにまでがんじがらめにしてしまうと、やがて最後に不満・不安・心配・絶望・恐怖などの悪い感情を抱えて極限の苦しみの 中で死を迎えることになるので注意が必要になります。

 無明の闇の中では、人間はこのようなことは全く考えようとはしませんし、考えさせないようにする思考が働いてしまっています。それほどに「執着の砦」は 難攻不落なのであります。そのために、仏教では四法印・四聖諦の真理、八正道の実践によって、この「執着の砦」を徐々に攻め落としていき、無明の闇の中で 抱えてしまっている煩悩・苦しみも、少しずつ無くしていかなければならないとしているのであります。

 無常も無我も苦も知らない間に、己を蝕んでしまっている様々なものに対しての渇愛・執着をできる限り無くしていくことが大切となります。

 妻がいても、何が妻なのか、夫がいても、何が夫なのか、子供がいても、何が子供なのか、自分が固執して離さなくしているものたちに固定した実体としての 「我」はないのに、また、全ては移ろい変わりゆく中にあるのに、捉えようとしても何も捉えられないのに、まるで蜃気楼、幻想の影を追いかけているようなも のであるにも拘わらず、私たちは、それらを「あるのだ」、「こうあるべきなのだ」、「変わるな」、「変われ」、「永遠に変わらないものだ」、「永久なの だ」と勝手に妄想でイメージしてしまい、必死になってそのイメージを追いかけ、追いかけ、追いかけ続けて、守ろうとし、やがては追いかけ続けること、守ろ うとすることが生きる目的にまでなり、そのうちにくたびれ、老いゆき、死を迎えるまでもがき続けてしまうのであります。

 結果、妄想のイメージと現実の乖離《かいり》は著しく広がっているだけで、最後は己の身体でさえもしがみつけず、一生懸命に蜃気楼、幻想の影を追いかけ続けた行為・過程の全ては死という一瞬で無駄に脆くも崩れ去って終わるのであります。

 しがみつこうとすればするほどに、苦しみが増すだけなのに、更に必死になって身体も心も酷使を繰り返してゆく、あっと言う間に身体も心もボロボロになっ て病気になってしまって、自然な老病死に反して早死にしてしまう人も多くなっています。日本における自殺者の増加もその一つと言えるのではないでしょう か。無執着になれば、自殺するほどまでに心や身体が病に蝕まれることもないですのに・・

 とにかく、皮肉にも世間では喜んで手に入れようと必死になっている執着・束縛対象、無常・無我・苦を知らないうちに抱えてしまった苦しみの原因となる執 着・束縛対象、財産(お金・土地・モノ)、恋人、伴侶、家族、親族、仲間、見栄、名誉、地位、権力などは、これからできる限りに無常・無我・苦をしっかり と念頭においた上で、その接し方、心構え、扱いについて気をつける、また、必要最低限以上におけるものは離していきながら、執着せずに苦しみを少しでも無 くしていくことが望ましいのであります。いつまでも愚かに自ら好んで苦しみの原因を、何ももうこれ以上作る必要は全くありません。

 「執着の砦」を果敢に攻め滅ぼしていきましょう。百万の屈強な兵を繰り出すよりも己ただ一人、己の「執着の砦」の心に克つことで、苦しみを無くしていかなければならないのであります。

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2007年12月28日金曜日

施本「佛の道」・第九章 智慧

施本「佛の道」・第九章 智慧

 智慧《ちえ》とは、無明を打ち破り、真理を悟ったものにもたらされる心の働きのこと。真理の実相から全く揺らぐことがなくなった心の働きのこと。智慧は、般若《はんにゃ》とも表されます。

 智慧は、既にもはや己のいかなる内面におけることも、己の外面におけるいかなることも、真理の実相の理解によって、常に涅槃寂静へと導くことができるように全てが調った、静かで落ち着いた心の働きであると考えます。

 また、智慧については、特に三学である「戒・定《じょう》・慧《え》」の中で詳しく扱われて説明されます。

 戒・・定められた戒律を学び遵守すること。戒律の規範となったのは、身行清浄・語行清浄・生活清浄の三つの清浄で、それらに向けて、例えば不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒の五戒や出家者に対しての戒律、生活規律などが多く定められています。

  定・・坐禅や瞑想修行にて禅定(精神統一・精神安定)を行うこと。禅定には諸説ありますが、基本としては、止(心を統一して止めること・三昧《ざんまい》 とも言う)と観(無常・無我をありのままに捉える)からなり、その境地の段階として、四禅八定(四禅四定)があります。四禅八定では欲界・色界・無色界に ついてそれぞれ禅定の段階が分かれています。

四禅八定

 まず、欲界の粗定・細定・欲界定・未到定の四つですが、これは禅定の前段階であり、次の色界の初禅・二禅・三禅・四禅の四つと、無色界の空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定《ひそうひひそうしょじょう》の四つで四禅八定となります。

  それぞれの説明は非常に難しく伝えにくいものですが、誤解を恐れずに簡単に述べさせて頂きますと、まず欲界のところについては、心の集中を養い、雑念を払 い、感情・感覚が研ぎ澄まされていく、次に感情・感覚が薄まっていき心が軽くなる。ここから禅定に入って、色界の段階となり、精神が集中されていく中、欲 界の煩わしさから完全に離れられた状態を楽しみ喜ぶ状態となり、更に心が統一され、大いなる幸福感、心の平安を得て、そして次には、欲界におけることの渇 愛・執着が無くなって非苦非楽の心境を味わい、更にはその平安な心が清浄の心へとなります。

 次に無色界の禅定に入り、清浄の心も徐々に 消えていき、虚空、無辺の境地を得て、心が外部に触れることが完全に無くなり、更には、心の内部にも何も触れることが無くなる、そして心もない、意識が全 く無いという禅定状態に至る。ここまでが、四禅八定の簡単な説明ですが、ではそれで悟りに至ったのかというと、そうではなくて、最後に九番目として「想受 滅」があるとされ、想(表象・概念)と受(感覚・感受、六感〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕)が滅せられた境地であり、これはもはや言葉では表現できない境地 で、悟りを得た者でしか分かり得ません。

 以上があくまでも簡単に述べさせて頂きました四禅八定の説明でありますが、考察・実践はそれぞれがしっかりと行なわなければならないものであります。

  慧・・戒・定と平行して進めなければならないこととして、五蓋《ごがい》を捨棄し、四聖諦の真理の完全理解へと至って、宿住随念智《しゅくじゅうずいねん ち》、死生智、漏尽智の三明を得ていくこと。五蓋とは五つの煩悩で、貪欲(むさぼり)・瞋恚(激しい怒り)・睡眠(昏沈《こんちん》・心が重く沈んでいる 状態)・掉挙《じょうこ》(心が昂ぶり平静さを失っている状態)・疑(真理への疑い、真理の理解を躊躇《ちゅうちょ》している状態)で、これらを無くして いくことによって、四聖諦の理解を深めて智慧が現われていくようになります。そして、解脱へ至るための三つの智慧として、まず、宿住随念智とは、過去にお ける煩悩・苦しみをもたらす所業の過程と原因を如実に知ること、死生智とは、他における煩悩・苦しみを如実に知ること、漏尽智とは、四聖諦の理解により、 煩悩・苦しみが無くなったことを如実に知ることであります。
 
 定の「想受滅」、最後に解脱と解脱知見の智慧を得て悟りになるとされていますが、その境地はもはや言葉で表すことは実に難しくあります。

  また、いかなる現象・存在に対しても「無執着」の状態になり、既に悟り・智慧にさえも執着が無くなっていますので、当然に「我」もなく、「悟り」・「智 慧」についても、「私は悟り・智慧を得たのだ」、「悟り・智慧は私のもの」というような妄執もないですので、ただ、最後には「涅槃」と述べるだけの方がよ り正確ですっきりすると言えるでしょう。

 そして、智慧は、生きとし生けるものたち、のみならず三界における全てのあまねくものたちにおける無明の闇を打ち破らせ、苦しみを取り除く慈悲の実践へと向かわせる働きでもあると解します。

 迷い・苦しみを抱える者が、智慧ある者に出会い、教えを請うたのであれば、即座にその迷い・苦しみは打ち破られることになるでしょう。その者こそ、正しく悟った者、正覚者・ブッダと言われる者であります。その第一がお釈迦様で、その教えが仏教なのであります。

 また、智慧を開発させる実践手段が八正道であります。仏法僧の三宝に帰依したる者は、しっかりと八正道を実践して智慧を開発していかなければならないのであります。

 もちろん、「悟りを得たい」、「智慧を得たい」というところに渇愛・執着してしまっては、到底、解脱・涅槃の境地に達することは、不可能になることも十分に注意しなければならないのであります。
 
  さて、ここまで少し難しい話が続いてきました。もしかすると既に途中でチンプンカンプンになられたかもしれません。または、それは間違っているのではない かと思われることもあったかもしれません。そうであれば、私の解説・解釈・内容に誤りがある、語彙・表現の仕方に問題がある、配慮が足りない、勉強が及ん でいない、仏教の真なる教えが一部抜けているなどのことも考えられます。誠に未熟者がゆえに申し訳ないと存じます。 

 仏教の実践は、必 ず迷い・苦しみが無くなり、涅槃寂静へと至るためのものであります。読者の皆様方の迷い・苦しみが少しも無くならないとなれば、それは単に私に責任がある ことであり、深く反省して真なる理解へ向けて一層精進努力していかなければならないと考えております。

 ここからは、章ごとにおいて理解を進めていくために、できる限り具体例を挙げて、これまでの内容を補完していきたいと考えています。どうかまだしばらくお付き合いくださいますれば幸いでございます

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2007年12月27日木曜日

施本「佛の道」・第八章 因縁生起

施本「佛の道」・第八章 因縁生起

 因縁生起《いんねんしょうき》は、主に省略して縁起《えんぎ》と言われることが多いですが、この世における一切の現象・存在は、全て因(直接原因)と縁 (間接原因・条件)の二つの原因が、それぞれ関わり合って構成されているということで、もちろん生滅変化を繰り返す無常の中にあります。

 私たちの存在も五蘊(色・受・想・行・識)の因縁生起で仮に成り立っていると先に述べてありますように、無常なる中においては、絶えず変化していく五蘊 のいずれも「これが自分だ」とすることは不可能であり、固定した実体としての「我」は成り立たず、「無我」となるのであります。もちろん、全ての現象・存 在も無常なる因縁生起のものであり、固定した実体としての「我」はどこにも何もありません。

 そして、お釈迦様は、苦しみを無くすために、因縁生起によってその苦しみの原因を明らかにされました。

 「これがあれば、かれがある。これが生ずれば、かれが生ずる。これがなければ、かれがない。これが滅すれば、かれが滅する。」という手法においてであります。

 苦しみの生じる原因をまとめたものに十二縁起があります。十二縁起には諸説あるため、解釈には非常に注意が必要となります。また古来より理解は難解とさ れているため、八正道の確かな実践によってこそ明らかにされるものであります。浅学非才、修行未熟なる私なりで頑張っての解釈は一応書き記しますが、読者 の皆様方におかれましては、八正道の実践によって真なる理解を明らかにされることを切に願う次第でございます。

 十二縁起、「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」。

・無明 
 煩悩の根元のこと。特に全ての煩悩を代表し、この「無明」として挙げられる。真理という明るさ、智慧という明るさから遠ざかってしまっていて、暗い闇の 中をさ迷い続けているということ。無知とも言われる。煩悩の三毒としてよく挙げられる貪瞋痴《とんじんち》の痴、つまり愚かさを言う場合もあります。

・行
 五蘊の説明で先に述べてあります行と同意で、意志・行為のこと。行は業とも言われることがあり、その場合は、無明・煩悩で 真理を知らないことによって積み上げてしまう行為、特に悪業のことを示します。無明によって行が起こる。

・識
 五蘊の説明で先に述べてあります識(意識・認識)のこと。行によって識が起こる。

・名色
 色は五蘊の説明で先に述べてあります物質のことで、人間における場合は肉体のこと。名は、心のこと。心と身体が結合すること。識によって名色が起こる。

・六処
 心と身体の一致によって眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官、六処が起こること。名色によって六処が起こる。

・触 
 触は、接触のこと。六処によって、この世における様々な対象と接触していくこと。接触によって主体と客体、主観と客観も生じます。六処によって、触が起こる。

・受
 五蘊の説明で先に述べてあります受(感覚・感受)のこと。受け入れるもの(快楽)、受け入れないもの(不快・苦)、どちらでもないもの(非苦非楽)が生じる。触によって受が起こる。

・愛
 渇愛のこと。受によって、受け入れたくないもの・認めたくないもの(不快・苦)は疎い嫌い、ほしくない、受け入れるもの(特に快楽)には好き、ほしいという渇愛が生じる。受によって愛が起こる。
 
・取
 執着のこと。愛によって、受け入れたくないもの・認めたくないもの(不快・苦)には疎い嫌い、ほしくないという執着、受け入れるもの(快楽)には、ほしいという渇愛から更にもっとほしいという執着が生じる。愛によって取が起こる。

・有
 苦しみの生存のこと。様々なことに執着することによって、苦しみの生存がある。または所有という妄執を抱えた苦しみとも考えられます。取によって有が起こる。

・生
 生きること。苦しみの生存の中を生きること。有によって生が起こる。

・老死
 生きることは、老いて死ぬこと。様々な苦しみを代表して、特に老死がここでは挙げられています。生によって老死が起こる。

 お釈迦様は、悟りを開かれた時、この十二縁起を順観と逆観によって理解されたと言われています。

無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死 A→B

順観  
 Aがあれば、Bがある。Aが生ずれば、Bが生ずる。

逆観 
 Aがなければ、Bがない。Aが滅すれば、Bが滅する。

 十二縁起は、なぜ苦しみが生じるのかということについて徹底して知見していくために順を追って、その因縁を記したもので、目指すところは、苦しみの原因は無明にあることを明らかにし、無明を打ち破って、智慧を開発して、苦しみから解脱することにあります。

 しかし、十二縁起は、あくまでも八正道の実践を補完するためのもので、真なる悟りを得るためには、やはり八正道の実践は欠かすことはできないものと解しております。

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2007年12月26日水曜日

施本「佛の道」・第七章 八正道・中道

施本「佛の道」・第七章 八正道・中道

 八正道《はっしょうどう》(八聖道と言う場合もある)とは、文字通り正しい八つの道、実践指針のことです。

 その内容に入る前に、まずは「正しい」ということについてしっかりと考えておかなければなりません。私たちは普通に生活する中で、「あれは正しい」、 「あれは間違っているということが正しい」と判断することが多いですが、それらの判断においては、大抵の場合、それぞれ自身の主観・偏見・独り善がり・自 己都合・自己満足などの恣意的要素が入り交じって、あやふやで、ほとんどの場合、絶対的に正しいとは、なかなか言えないものばかりであります。

 または、正しいということも、多くの人間が賛同しているから、多数決で決まったものだからという理由であったり、時代の変化、人間の価値観の変化、新たな発見によっても変わることも頻繁にあります。

 絶対的に正しい真理というものであれば、いつどんな時代においても、草木や虫たちにとっても、人間が絶滅した後の地球であっても、または宇宙の全ての現 象・存在にとっても、のみならず欲界(六道《りくどう》、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)・色界(物質的世界)・無色界(欲界・色界でもない精神的世 界)の三界においても当然に正しくなければならないのであります。

 また、やっかいであるのは、人間は自分の認識・判断がいつも必ず正しいと思って行動していることです。よもや誰も自分の認識・判断が間違っているとは 思ってはいません。みんながみんな自分は正しいと思って行動しているがゆえに、自分の認識・判断と違うことを言われ批判されたり、違う行動をされたりする と、それを認めず、受け入れずに腹が立って怒りを出し、衝突してしまうのであります。私たちの世界で争いが絶えないのも、この誰もが自分は正しいと認識・ 判断しているためなのであります。

 人間の認識・判断には、このように主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足など恣意的要素が強く入ってしまうことが多いので、本当に正しい真理を認識・判断するためには、それらの恣意的要素を全てしっかりと排除していかなければなりません。

 そのために、上から見ても下から見ても、右から見ても左から見ても、中間から見ても、過去から見ても現在から見ても未来から見ても、どのようないかなる 現象・存在から見ても、三界における全てから見ても、何ら偏りの無い、何ら差別《しゃべつ》の無い、何ら囚《とら》われの無い立場から認識・判断したもの を、ようやくに「正しい」としなければならないのであります。このような立場のことを「中道《ちゅうどう》」と言います。

 この中道の立場によって、八正道が成り立つのであります。では、その内容に入ります。

・正見 「四聖諦の智」と言われています。
 正しく真理、四法印・四聖諦を見極めることですが、諸行無常・諸法無我の真理をあるがままに中道の立場で完全に知見することで、あとの七つの正道の実践によって智慧を開発して、苦からの解脱を目指し、涅槃へと向かうように調えていくための第一歩となります。

・正思惟《しい》
 欲(主に五欲である財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲など)によってもたらされる悪い行いについて否定していく考えのこと。特に、無害心・無瞋恚・無 貪欲の三つについて思惟すること。無害心とは、生きとし生けるものたちを慈しみ、害を与えないようにすること。無瞋恚とは、激しい怒りをもって行動しない こと。無貪欲とは、足るべきをわきまえずに、必要以上にまで貪ることをしないことであります。

・正語
 正しい言葉遣いのこと。正見・正思惟を受けての言動を調える上で、特に次の四つのことに気をつけて慎むこと。妄語(虚偽を語ること)・両舌(言葉を都合 において使い分ける、二枚舌のこと)・悪口(相手を傷つける・不幸に陥れる言葉)・綺語(必要の無い美辞麗句、いい加減な言葉)を慎むこと。

・正業
 正しい行いのことですが、他に迷惑をかけない、他を不幸にしないことで、特に次の三つのことに気をつけて慎むこと。殺生(自己満足・自己都合・独善的に 生き物の生命を絶つこと)・偸盗《ちゅうとう》(盗むこと)・邪婬《じゃいん》(よこしまな男女関係・不倫のこと)を慎むこと。

・正命
 命をつなぐ上において、大切で必要になる衣・食・住・薬をまかなうために正しい生活・生業《なりわい》をすること。他に迷惑や危害が及ぶような生業・職業に就くことは気をつけて慎むこと。

・正精進
 正命のために、正しく勤め励み努力をすること。特に次の四つについて精進すること(四正勤《ししょうごん》)。すでにやってしまった悪を消すための努 力、いまだしていない悪について、これからも絶対にしないための努力、いまだしていない善をこれからしていくための努力、すでにしている善を更に進めてい くための努力。
 
・正念
 無常・無我なる中における瞬間瞬間の心の変化、身体の変化についての真実に正しく気づいていくこと。心を常に真実に気づかせていくこと。

・正定
 正念の実践のために精神を統一して心を定めること。禅定とも言う。坐禅や瞑想の実践。この正定によって、正見も完成し、智慧を得ていくことができるようになります。

施本「佛の道」・各章
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2007年12月25日火曜日

施本「佛の道」・第六章 四聖諦

施本「佛の道」・第六章 四聖諦

 「四聖諦《しせいたい》」は、苦諦・集《じっ》諦・滅諦・道諦の四つであります。

 諦とは真理という意味で、もちろん諦《あきら》めるという語意ですが、つまり、どんなに考察思慮し、どんなに検証を繰り返しても変わらない答えであった ために、抵抗を止めて、諦めたということでもあります。例えば、どんなにこの世の現象・存在で「無常」ではないものを探し求めても、「無常」でないものが 全く見つからない、どんなにこれが「我」として探し求めても、その「我」が全く見つからないということでの諦めた境地のことであります。

 四聖諦は、仏教の大切な教説で、苦しみから解脱し、涅槃へと至るための実践方法論であります。

 まず、苦諦でありますが、一切皆苦でも述べさせて頂きましたように、この世のあらゆる一切の全ては苦しみであるということですが、その苦しむ原因は何であるのかという集諦も含めてまずは考えていきます。

 一切皆苦においては、苦しみの原因は、妄想の集まりである煩悩にあり、その妄想の代表格として、ほしいという「渇愛」、しがみつこうとする「執着」があ ると述べさせて頂きました。ここでは、さらに煩悩・苦しみの原因の根本である「無明《むみょう》」について扱いたいと思います。

 無明とは、字の通り、明るさが無いということですが、つまりは、真理という明るさ、智慧という明るさから遠ざかってしまっていて、暗い闇の中をさ迷い続 けている、真理について盲目的になっているということであります。この場合の真理とは、四法印・四聖諦のことであり、智慧についてはまた後の章で詳しく述 べることにします。

 無明は、無知とも表されることがあり、煩悩の三毒としてよく挙げられる貪瞋痴《とんじんち》の痴、つまり愚かさのことを言う場合もあります。

 また、十二縁起(因縁)の第一番目に煩悩を総称する形で挙げられており、煩悩の一切のことを示す場合もあります。十二縁起につきましては、また後の章で扱います。

 一切皆苦の章の中にありました四苦八苦も、その根本の原因は無明にあり、その無明をいかに打ち破って克服するかは、四法印・四聖諦の理解の進み具合次第に係るわけであります。 

 もう少し簡単に述べてみますと、この世では何も満足できない、その不満が苦しみになるのですが、ではなぜ不満になるのかが分からない愚かなことを無明だ と言うわけであります。例えば、変化していくものを変化しないものとして捉えようとしたり、固定した実体としての我はないのに、我があるのだとして捉えよ うとしたりすることに、満足できなくなる、不満の原因があることを諸行無常、諸法無我の真理を自覚することによって、愚かで無駄な思考・妄想・行動を止め ることが大切になるというわけであります。仏教の真理を自覚して、無明の闇に打ち克っていかなければならないのであります。

 このように、集諦においては、苦しみの原因は、ただ煩悩と表す場合や、渇愛・執着と表す場合もありますし、煩悩を喚起させて、苦をもたらす根元として無 明と言う場合もあります。または、同じく煩悩の根元として、貪欲《とんよく》(むさぼり)・瞋恚《しんい》(激しい怒り)・愚痴《ぐち》(おろかさ)の三 毒を言う場合もありますし、十二縁起では、無明を苦しみの根元として、次に渇愛によって苦しみがどんどん広がって、執着によって更に苦しみが大きくなって いくとしている場合もあります。

 次に、滅諦・道諦でありますが、滅諦は、涅槃寂静と内容はほぼ同じで、苦しみの原因である煩悩(ここではただ煩悩としておきます)を完全に滅すれば、苦しみも生じることなく当然に滅することができて、涅槃へと至るという真理のことであります。 

 そして、道諦において、苦しみを無くすために、涅槃に至るために、ではどのようにして煩悩を滅していけばよいのかという実践行動について、お釈迦様は八正道を説かれたのであります。

第一章 はじめに
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第二章 諸行無常
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第三章 諸法無我
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第四章 一切皆苦
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第五章 涅槃寂静
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2007年12月24日月曜日

施本「佛の道」・第五章 涅槃寂静

施本「佛の道」・第五章 涅槃寂静

 諸行無常、諸法無我、一切皆苦と最後のこの「涅槃寂静《ねはんじゃくじょう》」を合わせたものを仏教の基本法理として「四法印《しほういん》」と呼称します。

 「涅槃」は、彼岸・悟りの世界、安楽なる境地のことであり、「寂静」は、寂滅とも表され、迷い苦しみの原因である煩悩が、完全に無くなったことを意味します。

 涅槃寂静は、仏教の目標、到達すべき境地であり、そのためには、先の三つの法印の真なる理解が必要となる次第でもあります。

  煩悩を完全に滅するということは、まずその原因となってしまっている様々な妄想を止めることでもあります。その一つが、諸行無常なる中では、何も永遠不変 なもの、永遠不滅なものはないのに、それらを求めようとして妄想してしまうことであり、さらにもう一つが、諸法無我なる中で、何も固定した実体としての我 はないのに、我があるとして、それらを求めようと妄想してしまうことであります。

 一つ一つの妄想をしっかりと潰して、真実なる真理に目覚めることで煩悩が尽滅され、涅槃へと至れることとなります。

  あるがままの真実をあるがままに自覚することで得られる境地になると解しますが、なかなか難しいのも現実であります。妄想が出てきてしまう要因としては、 先にも述べていますように、主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素も複雑に絡み合っているため、それらの排除を丁寧に進めていかな ければなりません。

 もちろん、お釈迦様は、どのように涅槃へと至れるようにするべきかにつきまして、「四聖諦《しせいたい》」をお説き になられました。四聖諦につきましては、次の章に扱うこととしまして、四法印・四聖諦を端的に表したと考えられる涅槃経における一つの偈をここにて紹介し ておきます。 
 
 「諸行無常
  是生滅法
  生滅滅已
  寂滅為楽」

 私の解釈

  「諸行は無常であり、これは生じては滅するという理《ことわり》である。この生滅の理の真実が正しくそのままを理解できずに悩み煩ってしまうことが、私た ちの苦しみの原因であり、この苦しみの原因となってしまっている妄想の集まりである煩悩の生滅を滅しおわって、煩悩を完全に寂滅して、ようやくに苦しみか ら解脱した安楽なる涅槃・悟りの境地へと至ることができるのであります。」

第一章 はじめに
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第二章 諸行無常
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第三章 諸法無我
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第四章 一切皆苦
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2007年12月23日日曜日

施本「佛の道」・第四章 一切皆苦

施本「佛の道」・第四章 一切皆苦

 「この世のあらゆる一切の全ては苦しみである」といきなり言われると、誰もが悲観的になり嫌悪することでありましょう。

 でも、「あなたにとって生きるということで苦しみはないのですか?」と聞くと、真剣に考えてみれば「やはり色々な苦しみがある」と答えることになるでしょう。

 もちろん、仏教はその苦しみを無くしていくための教え、方法論を説いているものであります。共にしっかりと学び実践することによって、苦しみを無くしていきましょう。

 では、まず何が苦しみかということについて、ここでは考えていくことにします。

  理由は簡単なのであります。それは諸行無常なる中に永遠不変・常住なるものを求めようとして妄想してしまうこと、諸法無我なる中に、固定した実体としての 我を求めてしまうことにあります。このようにほしいと求めてしまうことを「渇愛《かつあい》」と言いますが、この「渇愛」が満たされないことで、苦しみが 生じてしまうわけであります。また、諸行無常・諸法無我の中で、何も執着できるものがないのに拘わらず、しがみつこうとしても、しがみつけないことで苦し みが生じてしまうと言うことでもあります。

 この「渇愛」・「執着」を産み出してしまう「妄想」の集まりが「煩悩」であり、その「妄想」 を一つ一つ無くしていくことで、苦しみも一つ一つ無くなっていくのであります。そして、全ての「妄想」が無くなれば、当然に「煩悩」も無くなり、苦しみも 完全に無くなりますので、仏教はその境地を目指すための教えでありますから、一切皆苦と言われても悲観することなく学びについて精進しましょう。

 次に、人間が味わう具体的な苦しみについて、仏教では簡潔に「四苦八苦」にまとめています。

 それは、「生・老・病・死」の四苦、そして、「愛別離苦《あいべつりく》」・「怨憎会苦《おんぞうえく》」・「求不得苦《ぐふとっく》」・「五陰盛苦《ごおんじょうく》」の四苦で八苦になるわけであります。

  まず、生きる苦しみについてでありますが、やがて死ぬことは絶対に避けられないのに生きていかなければならないという苦しみ、身体も心も生きることを維 持・継続させていくためには、食べること、体裁を調えること、住処を得ること、学んで知識を得ること、資格を得ること、働くこと、仲間を得ること、配偶者 を得ること、子供をもうけること、友人を得ること、家族を養っていくこと、お金を貯めること、遊ぶこと、休むこと、病気になったら治療することなどに一生 懸命に頑張って取り組まなければならないという苦しみ、しかもなかなか自分・人・家族・会社・社会・国家・世界が自分の思い通りにはならない、期待・理想 通りにはならないという苦しみ、激しい生存競争・淘汰社会の浮き沈みの中で、いつ壊れてもおかしくない家族・友人・職場・社会など他との関係を何とかして でも維持・継続して過ごしていかなければならないという苦しみ、いつ起こるか分からない天変地異や事故・犯罪にいつも脅《おびや》かされて不安・恐怖を抱 えて過ごさなければならないという苦しみなど色々とあります。

 無常なる中で、やがて死を迎えれば、最後には全て捨て去っていかなければならない身体や金やモノや見栄や権力やらというものへの渇愛が止まずに、生というそのものに最後まで執着してしまうことによって、苦しみが生じてしまうことになります。

 老・病・死についての苦しみはここではあまり述べるまでもないと思いますが、それぞれ、若さ、健康、生という執着から生じる苦しみであります。

 また、無常なる中、変わってほしくないという渇愛・執着だけでなく、変わってほしいという渇愛・執着からも、なかなか思い通りに変わらない、期待通りに変わらないという苦しみも生じます。

  「愛別離苦」は、愛する者・モノ・ことともやがては別れ、離れなければならないという苦しみ、「怨憎会苦」は、激しく憎しむ者・モノ・ことでも出会って過 ごしていかなければならないという苦しみ、「求不得苦」は、求めても求めても得ることができないという苦しみ、「五陰盛苦」は、「五取薀苦《ごしゅうん く》」とも言いますが、先に述べております色・受・想・行・識が盛んに働いて、その五薀に囚《とら》われて「我」に執着してしまうために生じる苦しみであ ります。

 また、人間にとっては、内面的なもの、外面的なものに拘わらず、あらゆる感受されるものは楽(快楽・享楽)・苦・非苦非楽の三 つに分けることができますが、楽は壊れるときに苦となり、非苦非楽のものでさえも無常の中にあっては、生滅変化を免れないのでいずれ壊れゆくときに苦と なってしまう、ゆえに苦でないものはこの世においては何もないとして、あらゆる一切の全ては苦しみであるとお釈迦様は説かれたのであります。

第一章 はじめに
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第二章 諸行無常
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第三章 諸法無我
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2007年12月22日土曜日

施本「佛の道」・第三章 諸法無我

施本「佛の道」・第三章 諸法無我

 次に「諸法無我《しょほうむが》」についてであります。これは諸行無常からの派生的な真理として理解 していますが、この世の存在において、一切のものが変化していく中では、固定した実体としての「我」というものはない、変化するものには、主体たる「我」 は成り立たないということであります。

 普通、私たちは、存在について、自分がある、相手がある、生き物がある、モノがあると、その存在が常にあるものとして捉えてしまいがちです。

  しかし、それはそのものが常に変わるものではない、永遠に不変なる常住なるものとしての前提においてこそ成り立つことであり、諸行無常なることを無視して しまって、「我」というものを認めてしまおうとすればするほどに、そうではないことが、悩み煩いとなって、それが苦しみになるのであります。

 それでも私たちは無理矢理に「我」を認めようと、何らかの理由付けを探すために想像をめぐらせて頑張りますが、結局は妄想に終始してしまい、幻想・蜃気楼を見て、それを「我」だとしてつかもうとするものの、決してつかめることはないのであります。

  諸法無我の教えの本質は、この世における存在には、始めから何もしがみつけるもの、執着できるものはないとして、私たちが勘違いして「ある」としてしまっ ている「我」についての妄想を止めなさい、「我」があるとして見ているのは、幻想・蜃気楼みたいなものですよ、実体はないですよ、つかめないですよと気付 かせるためであります。

 諸行無常なる変化をそのままの変化として、変化するものが全ての存在の現象であると受け入れて認めることで、「我」があるのだと錯覚して悩み煩う妄想を止めることが大切になるわけであります。

 では、無常なる中における私たち人間存在とは一体何であるのか、それを仏教では、五蘊仮和合《ごうんけわごう》のものであるとしています。

  五蘊とは、色《しき》・受・想・行・識で、それぞれ、色(物質・肉体)、受(感覚・感受、六感〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕、五蘊の場合における六感では 「意」は含まない場合もある)、想(表象・概念)、行(意志)、識(意識・認識)で、その五蘊が無常なる中、因縁によって仮に集合しているものが、私たち 人間の存在であり、その五蘊も当然に移ろい変化する中にあって、決して永遠不変・常住なるものではなく、五蘊にも固定した実体たる「我」はないため、五蘊 それぞれも「自分のもの」ではなく、もちろん何もつかめないし、執着できるものではありません。

 私たちの苦しみは、五蘊にしがみついて「これが自分だ、これが自分のものだ」と妄想してしまうことから生じてしまうわけであります。その妄想を打ち破ることが、諸法無我の理解においては大切となります。

  五蘊を私なりに少し順番に例えで挙げてみますと、色・自分の肉体(新陳代謝を繰り返しながら変化して衰えゆくもの)がある、色・太陽(水素とヘリウムの熱 核融合反応の塊)がある、受・人間は、肉体の感覚器官、この場合は眼・身で太陽の光と熱を感じる、想・太陽についてのイメージ・概念を作る(丸いものだ、 明るいものだ、暖かいものだなど)、行・行動意志が起こる(太陽が出たから動こう、太陽の明るさ、暖かさを利用してあれをしよう、これをしようという意志 が起こる)、識・認識(私たちが動くことができるためのものだ、ありがたいものだ、恵みをもたらすものだなどとして認識する)としましょう、しかし、全て は刻々と移ろい変化していくものであるため、色・太陽も実際は熱核融合による水素とヘリウムを消費しながらの爆発の連続で、コロナ、黒点、太陽風、磁力線 などの出現も目まぐるしく瞬間で生滅変化し続けていて、私たちの色・肉体である眼や身(便宜上、ここでは皮膚)も刻々と新陳代謝を繰り返しながら変化し衰 え、老化してゆく中にあり、あるいは病気となり機能が低下する、見えなくなる、感じなくなるなど死へと向かう中で変わりゆき、受・感覚も、例えばまぶしす ぎて見難くなったり、また弱くなった眼や皮膚が紫外線を受けると痛くなったりと、感じ方も時間や場所、年齢・状況・状態など時々によっても刻々と当然に変 わっていけば、想・太陽についてのイメージ・概念も、色・受が変われば、例えば、私たちを痛くして害するものだ、つらさをもたらすものだ、日照りが続け ば、過酷なものだと変わっていくこともあり、そして、これに従って行・行動意志も、太陽を避けなければならない、対策をしなければならないと変わることも あります。これらの色・受・想・行によって、識・認識についても、気をつけなければならないものだ、嫌なものだ、つらいものだ、危ないものだなどに変わっ ていくことになるでしょう。

 このようにして、無常なる中においては、絶えず変化していく五蘊のいずれにおいても「これが自分だ」とする ことは不可能であり、「我」はやはり成り立たないということであります。「自分がある」として妄想してしまって苦しむ「我」をなくし、五蘊のいずれにも執 着しないように「我執」を無くしていかなければならないのであります。

 もちろん、あらゆる全ての存在においても固定した実体としての「我」というものはないというのが、この諸法無我の教えなのであります。

第一章 はじめに
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第二章 諸行無常
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2007年12月21日金曜日

施本「佛の道」・第二章 諸行無常

施本「佛の道」・第二章 諸行無常

 仏教を学ぶ者も、そうでない者も一度ならずこの「諸行無常《しょぎょうむじょう》」という言葉は聞かれたことがあるのではないかと思います。

 有名な中世日本の歴史物語・平家物語の冒頭にも、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす・・」とこの言葉が出てきます。

 また、一般的にも舞い散る桜の花びらや、紅葉した落ち葉を見ては、「無常だなー」と感傷的に使うこともしばしばあるのではないでしょうか。この感傷的な場合の無常は、仏教の無常観とは少し違うものでありますので、やや注意が必要となります。

 諸行無常とは、「この世のあらゆる全ての現象・存在は移ろい変わりゆくもので、生滅変化を繰り返す常ならずにある」ということであり、この世における現象・存在には、永遠不変なるもの、永遠不滅なるものは一切何もないということでもあります。

 仏教の教えの真髄はまさに「無常」の理解にあり、無常の理解を完全完璧に行うことができれば、それで悟りに至ることができると言っても全く過言ではないものであると考えます。

 もちろん、その真なる理解は、かなり険しく難しいため、私たちはなかなか悩み煩う苦しみから逃れることができないのであり、それは、無常という理解について、やはりそれぞれ自身における主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足など恣意的要素がどうしても入ってしまうためで、真なる理解を邪魔するそれらの要素を完全に排除していかなければならないのであります。

 例えば、自分にとって都合の良い、嬉しい、有難い「無常」は受け入れても、自分や自分の愛する人、親しい人の老・病・死や心変わり、自分の好きなもの、大切なもの、失いたくないものの「無常」の変化は受け入れたくない、認めたくないということはないでしょうか。 

 また、受け入れるもの、認めたものは永遠不変、永遠不滅なるものとして、何とかそう思いたい、そうあってほしいとして、様々な想像、妄想《もうぞう》を働かせて、無理矢理に色々とこじつけを行い、結局は、なお一層に「無常」の真理から遠ざかってしまうことによって、更に迷い苦しみの中に陥ってしまうことにもなってしまうのであります。

 もちろん、勝手に無常の理解を自分の都合で変えてしまっては、真に「無常」を理解したとは到底言えません。全ての無常なる変化のありのままを差別《しゃべつ》無く受け入れて、認めていくための心の修行が必要になってくるわけであり、仏教を学ぶ僧侶たちは、そのために瞑想や坐禅を通じて、その心境をしっかりと調えていくのであります。

 また、刻々と全てが移ろう中における無常のこの世においては、同じ瞬間というものはもはやありません。それがゆえに過ぎ去った瞬間を振り返る暇も当然になく、いかに今の瞬間瞬間のありのままを受け入れて、過ごしていけるのかどうかが大切となります。

 ですから、過去におけることで、今の瞬間に活かすための反省ということはあっても、後悔というものは成り立たないわけで、過去に束縛されて今の瞬間の心が暗く苦しい状態にあるのであれば、それは無常の変化に全く自分の心・身体が追いついていないということでもあります。

 更にもう少し本質的な話をするとすれば、この世は無常でなければ私たちは存在することは当然にできません。無常という中におけるあらゆるものの因縁正起《いんねんしょうき》(縁起)の営みがあってこそ、宇宙、銀河系、恒星、惑星なども存在し、この地球においても、生命が生存できるような稀有なる状況への変化の過程の中で、私たちの存在自体も奇跡的にあるわけであります。 

 ありえないことながら、何も変化しない宇宙があるとすれば、当然に何も変わっていかないため、銀河系も恒星も惑星もブラックホールも、地球における生命の営みも、何の生滅変化もないのであります。もちろん、美味しい果物も、可愛い虫や動物たちも、心地よい音楽も、楽しいお芝居も何も存在しないのであります。

 つまり、無常を否定することは、私たちの存在のみならず、この世の現象・存在そのものをも否定することになるのであります。ですから、因縁の中で今現在、存在している以上は、結局当然に無常をしっかりと受け入れて、認めていかなければどうにもならないわけであり、そうでなければ、あなたも、あなたがあまり変わってほしくないと願っているあなたの愛する人たち、親しい人たちも当然に始めからその存在を否定することになってしまうのであります。しかし、現に確実に存在している以上、それはもうできないことであります。ですから、現象・存在の無常を当たり前のように認めることが、まず仏教の教えにおいては大切となります。

 さて、諸行無常につきましては、これから本論を進めていく中で、随時、その理解について補完していくこととします。

第一章 はじめに
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2007年12月20日木曜日

施本「佛の道」・第一章 はじめに

施本「佛の道」・第一章 はじめに

 お釈迦様が悟りを開かれて、その教えをお説きになられましたのが、仏教であります。今からおよそ二千六百年ほど前になります。

 この度、僧侶として、浅学非才の身ながらも、これまで私なりに仏教の学びを進めて参りました中、僭越ながらもその理解について一度まとめさせて頂きまして、更なる理解へ向けての一里塚と致したく、この本を執筆させて頂きました次第でございます。

 また、読者の皆様方が仏教の学びを進められる上で、少しなりともご参考になるところがありましたら、誠に幸いでございます。

 仏教の真理につきまして、ここにおいて私が述べさせて頂きましたことが、絶対的に正しいとは、私自身も当然に思ってはおりません。

 なぜならば、人間の認識・判断・理解におきましては、その人の経験・学習・知識からの考え方・思想・主義・主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足 などの恣意《しい》的要素が相当に入ってしまうことが多々あるため、当然にまだまだ私自身においてもしかりであります。内容に関しまして、必ずご批判、ご 反論もあることと存じます。ご批判、ご反論もしっかりと受けとめて、確かなる仏教の理解へ向けて、今後更に歩みを進めていければと考えております。

 また、私自身、本論における解釈・解説につきまして、ここに書かせて頂きました内容に執着するつもりも毛頭ございません。間違いは間違い、誤りは誤りとして認めるべきところが出てくれば、それはしっかりと受け入れて認めて、修正・変更していきたいと考えています。

 そのため、本論を読み進めて頂きます上におきましては、あくまでも内容はまだまだ一僧侶の未熟なる理解にしか過ぎず、仏教の真理につきましては、読者の皆様方の精進努力による真理探究、見極めも当然に大切であると考えております。

 このことをまずはご理解賜りまして、これからも共に仏教の学びを進めさせて頂ければ幸いでございます。

 生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。三界における全てのものたちが苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

 川口 英俊 合掌

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2007年10月12日金曜日

前川レポート

前回において、新自由主義・新保守主義の凋落傾向について触れましたが、小泉政権・安倍政権下における強引な政策運営の結果、各種負担増・格差社会という弊害があまりにも顕著となり、参院選においての自民大惨敗に繋がったと言えるでしょう。国民が強引な政策運営に対してNO!を突きつけたわけであります。

とにかく日本の現状下においては、新自由主義・新保守主義傾向の色濃い政策に対しての修正が求められているのは明らかでありますが、しかし、だからと言ってすぐに政策が中軸へと戻り、リベラリズムへと傾倒していくかどうかは、民主党の政策軸のあり方次第に拠るところが多分にあります。自民党のみならず、民主党の中にも新自由主義・新保守主義傾向の政策思考を持つ議員が意外にも結構存在するからであります。

とにかく既に規定路線として敷かれた解散総選挙へ向けて、国会における政策論争についての判断、政党毎のマニフェスト比較判断ももちろん大切ですが、それよりも政治家毎における政策思考・思想軸についても有権者は情報収集を行い、注視して投票行動判断の重要な要素の一つとして組み込む必要があると考えます。

さて、今回のタイトル「前川レポート」でありますが、新自由主義・新保守主義傾向路線が日本の政治・経済政策において始まったのは、何も小泉内閣・安倍内閣ではありません、遡ること実は中曽根内閣からであります。もう少し詳しく述べるならば、当時、国際協調のための経済構造調整研究会の座長であった前川春雄(元日銀総裁)氏が中心となってまとめた「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」から新自由主義・新保守主義傾向路線が始まったと言えるでしょう。それほどに端緒が古くあり、長く日本の政治・経済政策がその傾向路線にあるため、修正することは相当に難しいものとなっています。とにかく、今後における中央政界における大再編、反新自由主義・反新保守主義を掲げる真なるリベラリズム政党による政権交代が可能な状況にならない限りは、容易にこの傾向路線を変えることはできないでしょう。

その「前川レポート」の全文
参照元
http://www.komazawa-u.ac.jp/~kobamasa/lecture/japaneco/maekawarep.htm

国際協調のための経済構造調整研究会報告書(経構研報告)

報告書

昭和61年4月7日  国際協調のための経済構造調整研究会

内閣総理大臣 中曽根 康弘殿

国際協調のための経済構造調整研究会

前川春雄、大来佐武郎、田淵節也、赤沢璋一、大山昊人、長岡實、石原俊、加藤寛、細見卓、磯田一郎、香西泰、宮崎勇、宇佐美忠信、小山五郎、向坊隆、大河原良雄、澤邊守(17人)

 我々は昭和六〇年一〇月三一日、内閣総理大臣から、我が国をめぐる近来の国際経済の環境変化に対応して、中期的な視野から、我が国の今後の経済社会の構造及び運営に関する施策のあり方を検討するよう要請を受けた。
 当研究会はこの要請を受け、今日まで約五か月間、合計一九回にわたり会合を開催し、自由な立場から討議を積み重ね検討を行ってきたが、ここにその結果を報告する。

一、基本認識
1、我が国経済の置かれた現状
 戦後40年間に我が国は急速な発展を遂げ、今や国際社会において重要な地位を占めるに至った。
 国際収支面では経常収支黒字が一九八〇年代に入り傾向的に増大し、特に一九八五年は、対GNP比で3.6%とかつてない水準まで大幅化している。
 我が国の大幅な経常収支不均衡の継続は、我が国の経済運営においても、また、世界経済の調和ある発展という観点からも、危機的状況であると認識する必要がある。
 今や我が国は、従来の経済政策及び国民生活のあり方を歴史的に転換させるべき時期を迎えている。かかる転換なくして、我が国の発展はありえない。
2、我が国の目指すべき目標
 今後、経常収支不均衡を国際的に調和のとれるよう着実に縮小させることを中期的な国民的政策目標として設定し、この目標実現の決意を政府は内外に表明すべきである。
 経常収支の大幅黒字は、基本的には、我が国経済の輸出指向等経済構造に根ざすものであり、今後、我が国の構造調整という画期的な施策を実施し、国際協調型経済構造への変革を図ることが急務である。
 この目標を実現していく過程を通じ、国民生活の質の向上を目指すべきであり、また、この変革の成否は、世界の中の我が国の将来を左右するとの認識が必要である。
 これらを通じ、我が国の経済的地位にふさわしい責務を果たし、世界経済との調和ある共存を図るとともに経済のみならず科学技術、文化、学術面で世界に貢献すべきである。
 我が国の目指すべき目標を実現するため、当研究会は以下の基本釣考え方に基づきその具体的方策を提言する。
3、堤言に当たっての基本的考え方
 提言に当たっては、自由貿易体制の維持・強化、世界経済の持続的かつ安定的成長を図るため、我が国経済の拡大均衡及びそれに伴う輸入の増大によることを基本とする。
(1)市場原理を基調とした施策
 「国際的に開かれた日本」に向けて「原則自由、例外制限」という視点に立ち、市場原理を基本とする施策を行う。そのため、市場アクセスの一層の改善と規制緩和の徹底的推進を図る。
(2)グローバルな視点に立った施策
 世界経済の持続的かつ安定的成長によってのみ、日本経済の発展が得られるとの考え方に立ち、我が国の経済構造の是正に自主的に取り組む必要がある。と同時に、世界経済の発展には、各国の努力と協力が不可欠であり、構造調整などの政策協調の実現が必要である。
(3)中長期的な努力の継続
 経済構造の是正並びに体質改善については、調整過程が中長期に及ぶため、息長く努力を継続していかなければならない。
 しかし、施策の着手については早急にこれを行う必要がある。

二、提言
 国際協調型経済を実現し、国際国家日本を指向していくためには、内需主導型の経済成長を図るとともに、輸出入・産業構造の抜本的な転換を推進していくことが不可欠である。同時に、適切な為替相場の実現及びその安定に努め、また、金融資本市場の自由化・国際化を一段とおし進めていく必要がある。さらに、国際協力により世界へ積極的に貢献していくことも重要である。これらの実施に当たっては、税制を含む財政・金融政策の役割も重要であり、特に貯蓄優遇税制については、抜本的に見直す必要がある。
1、内需拡大
 外需依存から内需主導型の活力ある経済成長への転換を図るため、この際、乗数効果も大きく、かつ個人消費の拡大につながるような効果的な内需拡大策に最重点を置く。
(1)住宅対策及び都市再開発事業の推進
 住宅政策の抜本的改革を図り、住宅対策を充実・強化する。特に、大都市圏を中心に、既成市街地の再開発による職住近接の居住スペースの創出や新住宅都市の建設を促進する。併せて都市機能の充実を図る。
 その際留意すべき事項は下記の通りである。
民間活力の活用を中心に事業規模の拡大を図る。そのためには、規制緩和の推進、呼び水効果としての財政上のインセンティブが必要である。
住宅減税の拡充・強化。
地価の上昇を抑制するための措置を講ずる。例えば、線引きの見直し、地方公共団体による宅地開発要綱の緩和、用途地域、容積率の見直し等。
地権者調整の迅速化を図る。
(2)消費生活の充実
 経済成長の成果を賃金にも適切に配分するとともに、所得税減税により可処分所得の増加を図ることが個人消費の増加に有効である。また、労働時間の短縮により自由時間の増加を図るとともに有給休暇の集中的活用を促進する。労働時間については、公務・金融等の部門における速やかな実施を図りつつ、欧米先進国なみの年間総労働時間の実現と週休二日制の早期完全実施を図る。
(3)地方における社会資本整備の推進
 地方自治体による資本形成の大幅な増加を図ることは、内需拡大の効果を全国的に広げるために不可欠の政策である。そのため、地方債の活用等により地方単独事業を拡大し、社会資本の整備を促進する。
2、国際的に調和のとれた産業構造への転換
 国際的に調和のとれた輸出入・産業構造への転換は、基本的には市場原理を通じ推進されるものであるが、次の施策の推進によりその促進を図るべきである。
(1)産業構造の転換と積極的産業調整の推進
 国際分業を促進するため、積極的な産業調整を進めなければならない。
 このため、中小企業等への影響に配慮しつつ、積極的に産業構造の転換を推進する必要がある。この関連で、現在法律によって推進中の構造改善については、その早期達成を期する。さらに、石炭鉱業については、地域経済に与える深刻な影響に配慮しつつ、現在の国内生産水準を大幅に縮減する方向で基本的見直しを行い、これに伴い海外炭の輸入拡大を図るべきである。
 また、産業転換を進めるに当たっては、技術開発、社会及び経済の情報化及びシステム化、自由時間の増大と消費構造の多様化に伴うサービス産業の発展等を促進する必要がある。
(2)直接投資の促進
 海外直接投資は、我が国の対外不均衡の是正と投資先国の経済発展の上で重要な役割を果たすものである。近年、海外投資は急速な拡大傾向にあるが、今後、国内雇用・経済への影響等に配慮しつつ、これを積極的に促進すべきである。このため、二国間投資保護協定の締結促進、海外投資保険制度の拡充、国際投資保証機構(MIGA)への参加、その他政府の支援措置の強化を図る。
 また、開発途上国における投資環境整備のための経済協力の拡充を図ることも必要である。
 一方、対日直接投資についても、金融措置・情報提供の充実等により、積極的に推進する、さらに、技術交流、第三国市場協力を含めた産業協力及び民間を主体とした産業協力機関の設立など人的交流の促進を積極的に推進すべきである。
(3)国際化時代にふさわしい農業政策の推進
 我が国農業については、国土条件等の制約の下で可能な限りの高い生産性を実現するため、その将来展望を明確にし、その実現に向けて徹底した構造改善を図る等、国際化時代にふさわしい農業政策を推進すべきである。この場合、今後育成すべき担い手に焦点を当てて施策の集中・重点化を図るとともに、価格政策についても、市場メカニズムを一層活用し、構造政策の推進を積極的に促進・助長する方向でその見直し・合理化を図るべきである。
 基幹的な農産物を除いて、内外価格差の著しい品目(農産加工品を含む)については、着実に輸入の拡大を図り、内外価格差の縮小と農業の合理化・効率化に努めるべきである。
 輸入制限品目については、ガット新ラウンド等の交渉関係等を考慮しつつ、国内市場の一層の開放に向けての将来展望の下に、市場アクセスの改善に努めるべきである。
3、市場アクセスの一層の改善と製品輸入の促進等
(1)市場アクセスの一層の改善
 アクション・プログラム(関税、輸入制限、基準認証、政府調達等)の完全実施を促進する。また、市場アクセスの一層の改善を図るため、市場開放問題苦情処理推進本部(O.T.O.)については、その法制化の検討を含め、機能を強化する。
(2)製品輸入等の促進
 製品輸入の促進については、現地生産、中間財・製品の輸入拡大等、国際分業化に資する海外投資をはじめ、構造的諸対策の着実な実施と併せ、更に積極的に取り組むべきである。特に、流通構造の合理化の促進、流通・販売に係る諸規制の見直しを行うとともに、不公正な取引の防止等独禁法の厳正な運用(注)、外国商標に係るものその他の不正商品を排除するための国内体制の整備を図る。
 (注)国際契約届出の監視。不当な排他的取引等に対し厳正に対処。並行輸入を不当に阻害する行為の監視。
 また、国民に対する輸入促進キャンペーンの強化、海外に対する流通・市場についての情報提供の充実等製品輸入促進策の整備を図るとともに、開発途上国からの製品輸入拡大に資する経済協力の拡充、民間ベースの技術移転等を促進する。
(3)節度ある企業行動
 シェア拡大第一主義に傾きがちな企業行動が摩擦を発生させる可能性が大きいこと等にかんがみ、我が国企業においても国際的責任を自覚した行動が望まれる。
4、国際通貨価値の安定化と金融の自由化・国際化
(1)適切な国際通貨価値の安定と維持
 内外需バランスの実現には為替市場がファンダメンタルズを反映したかたちで安定することが不可欠である。政策運営上もこれに重点を置いていく必要があるが、為替安定は我が国の政策努力のみでは達成不可能であり、国際的な取り組みが必要である。
 現状においては、変動相場制の下で安定の仕組みを考えざるを得ないが、この場合基本的には先進国経済のパフォーマンスに大きな不均衡のないことが為替相場安定の基盤であり、このためには、高度の政策調整が求められる。しかし、市場はファンダメンタルズを常に反映するとは限らず、関係国の協調と介入がその是正に有効である。
 基本的な経済政策の国際的斉合性を確保するとともに、各国協調の経験の積み重ねにより将来の安定した仕組みに発展させる努力が必要である。
(2)金融・資本市場の自由化と円の国際化
 金融・資本取引の自由化に伴い取引が国際的規模で行われており、我が国も経済的規模にふさわしい金融・資本市場を確立すべきである。これが円の国際化の実現につながることとなる。
 このため、金融・資本取引の自由化を更に推進し、非居住者による資金の調達・運用の両面での取引拡大を図るべきである。
 従来から、資金調達に比し運用面の国際化が立ち遅れており、今後、資金運用市場機能の整備を進め、調達・運用両面のバランスが確保されることが不可欠である。
 資金運用市場強化のためには、
投資資産の多様化。特に短期金融市場の整備が喫緊の課題である。
流通市場の拡大・強化。取引の国際化に伴う制度及び取引面の国際的な斉合化、なかんずく、税制面での国際化が必要である。

5、国際協力の推進と国際的地位にふさわしい世界経済への貢献
 国際協力の推進と世界経済への貢献のため、所要の財源につき適切な措置を講じ、以下の施策を実施する。
(1)国際協力の推進
1.開発途上国からの輸入拡大
 開発途上国における輸出産業の質的改善と振興に資する我が国からの技術移転と投資増大、市場開拓努力に対する協力の強化等により製品輸人の促進を図る。
2.累積債務問題への対応
 金利水準低下への努力の推進、開発途上国への公的資金フロ一の拡充、国際開発金融機関の資金基盤の強化及びその機能の一層の効率化、累積債務の民間金融機関に及ぼす影響についての配慮について、他の先進諸国とともに努力すべきである。
3.経済・技術協力の推進
 政府開発援助(ODA)の拡充については、現行中期目標の早期達成に極力努力する。また、民間援助団体(NGO)の活用も重要である。経済、技術協力の内容については、技術協力の拡充、援助人員の養成等ソフト面の重視、グラント・エレメントの改善、混合借款の規制、アンタイド化の推進等を図る必要がある。
4.科学技術・文化面での国際交流の推進
 21世紀に向けて新たな科学技術の創造に積極的に貢献する。このため基礎科学技術研究開発を進めるとともに、この分野における国際研究協力を推進する。
 海外における日本語普及、日本研究の促進、人物交流の推進、国際放送の強化等を図る。
 国際化時代に対応するため、学術研究機関の開放、外国人教師・留学生の受入れ、帰国子女受入れ体制の整備等を行う。
(2)新ラウンドの積極的推進
 途上国の関心事項に積極的に対応するとともに、サービス貿易、知的所有権問題等新分野の国際ルールづくりに積極的に参加する。さらに、ガットヘの信頼性を回復するためのガットルールやガット体制の強化を図る。
 なお、工業製品関税に関するアクション・プログラムの決定に従って、積極的に関税交渉が推進されることを期待する。
6、財政・金融政策の進め方
 以上の提言の実施に当たり、財政・金融政策の果たすべき役割は重要である。
 財政政策の運営に当たっては、赤字国債依存体質からの早期脱却という財政改革の基本路線は維持すべきであるが、財源の効率的・重点的配分、民間活力の活用、規制緩和等の工夫を図り、中長期的に、バランスのとれた経済社会を目指し機動的な対応を図る必要がある。
 税制については、公平・公正・簡素・活力・選択に加え、国際的見地から見直すべきである。上記の原則に照らし、貯蓄優遇税制については、非課税貯蓄制度の廃止を含め、これを抜本的に見直す必要がある。
 金融政策の運営に当たっては内外通貨価値の安定を確保しつつ、内需主導型経済の実現に向け、機動的に運営することが必要である。
7、フォロー・アップ
 当研究会の提言について、政府において早急に必要な検討を行い、所要の措置をとり、また、その実施状況を適切にフォロー・アップするため所要の体制整傭を図ることを強く期待する。

三、むすび
 我が国の社会経済構造を国際社会に調和したものに変革するという課題の実現に当たっては、政府に課せられた責務はもとより重大であるが、国民ひとりひとりが、国際社会に対する積極的貢献こそ我が国の発展の前提条件であることを明確に認識し、今後、国民的課題として全力を傾注して取り組んでいくことが不可欠である。政府においては、上記の提言の実施について国民の理解と協力を求めつつ、最大限の努力を払われるよう強く期待する。

・・参照ここまで。

2007年10月11日木曜日

新自由主義・新保守主義の凋落

アンテナ・ブレインストーミングにおけるリンクサイト・ブログの巡回・拝見から、特に最近思うのは、明らかに新自由主義・新保守主義は凋落傾向にあり、見直し必至という印象を受けます。というよりも日本における政策軸が、特に小泉政権・安倍政権下において、かなり顕著に新自由主義・新保守主義に偏重してしまった弊害が強く出始めてきたため、政策軸の修正が急務になっているという感じでありますね。

新自由主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


新自由主義(しんじゆうしゅぎ、英:neoliberalism、ネオリベラリズム)とは、国家による福祉公共サービスの縮小(小さな政府民営化)と、大幅な規制緩和市場原理主義の重視を特徴とする経済思想

資本移動を自由化するグローバル資本主義は新自由主義を一国のみならず世界まで広げたものと言ってよい。

国家による富の再分配を主張する自由主義(英:liberalism、リベラリズム)や社会民主主義(英:Democratic Socialism)と対立する。

新保守主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新保守主義(しんほしゅしゅぎ、英:Neoconservatism)は政治的立場の一種。俗にネオコンとも呼ばれるが、特に「ネオコン」と言うときは新保守主義の中でもアメリカ合衆国などの一部の政治グループを指すことも多い。

概要

1980年代からアメリカやイギリスなどで1970年代の社会民主主義自由主義に代わり誕生した。アメリカのレーガン政権英国サッチャー政権日本中曽根内閣が新保守主義の代表例として言及される。

国内的には行政サービスや社会保障を民間に開放しできるだけ削減、効率を優先させる「小さな政府」の立場を取る政策論のこと。国外的には武力行使も辞さないとする強硬姿勢を取る。実際、レーガン政権はソ連と新冷戦の開始による軍拡競争をおこない、サッチャー政権も領有問題に端を発したフォークランド紛争をおこした。

国家によるサービスの縮小(小さな政府民営化)と、大幅な規制緩和市場原理主義の重視を特徴とする経済思想は新自由主義と呼ばれる。地方を基盤とし安定的な経済を与える従来の保守とは異なり、大都市市民を基盤にして台頭した。

経済的には政府による介入を極力排し、市場や企業の活動への規制を無くす傾向が強い。大企業や富裕層への減税間接税増税、福祉削減、規制緩和などによって特徴づけられる。英国ではサッチャー政権が地方議会を廃止していった例のように、中央集権的な傾向を持つとされる。また、家族・性道徳などを強調する保守的な価値観、倫理観を持ち、妊娠中絶麻薬問題、同性愛者の権利問題などをめぐる政策に反映される場合がある。

2007年9月24日月曜日

川口英俊のアンテナ・ブレインストーミング始動

「右でも左でもなく、上でも下でもなく、ましてや中間でもない、虚空主義。」
川口英俊のアンテナ・ブレインストーミング始動
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